2009年02月24日
旗指の権現森

( 2/20 金曜日)
ここは旗指の(有)堺ボデーのすぐ近く。
転写

史跡 権現森
永禄11年12月(1568)の末ころより天正年間(1572)にかけ、
徳川、武田の両軍は、千葉山智満寺を中心に、猛烈な兵火を交え、この付近の
社殿、仏閣多数を廃墟と化した。そのころ徳川の軍勢は、この旗指の地に陣営を布き、
幾本もの旗織を風に靡かせて武田の軍勢に対抗した。家康公は、この山腹の小高い丘の
森陰に本営を置いて全軍を指揮した。
家康公は肌身離さず奉持していた守護神を今の三寸神社に奉納して
戦勝の祈願をしたと伝えられている。
当時、大井川の流れの一筋が向谷水神社の山鼻から伊太口を洗い、三寸神社前から
旗指の山裾を浸し、大沢谷川と合流して大きな淀となって東へ流れていた。
家康公はこの戦勝祈願のために桶舟を造り、これの乗って往復したという。
斯様なことから天下平定の後、この地を「権現森」と称して保存されてきた。
昭和の終戦後まで樹齢数百年という樅の大木が存在したが惜しくも落雷で焼失した。
現在その所在地は、この真上の国一バイパスの用地となっている。
平成4年2月吉日 旗指郷土愛好会

このお堂の上がバイパス、この辺りが権現森か。
そして・・・・・
このバイパスの下に権現森がある。
旗指」の呼称について。・・・・「はっさし」 と読む。
旗指インターの道路標識がローマ字で「ハタサシ」と誤字を記載されてしまったが
市議のどなたかが気付いてくれて4年くらい前、書き直された。

この辺りを通称 「はっさし」と
言いならわしていたので
住居表示も
正式にこの地名が付けられた。